母とは「もし同じクラスにいたら、絶対に仲良くならないタイプ」だった。(お互いに)
彼女は、私が娘を産んだ翌年に他界した。長く、重い病気を患っていたので、家族は悲しみつつも、やっと彼女が苦しみから解放されたという複雑な安堵感もあった。
一方で娘の私は、父に介護をまかせてきた後ろめたさに加え、里帰り出産をしなかった件で母ともめ、きちんと和解しないままお別れとなってしまったため、大きな心残りを残してしまった。
病気のことを除けば、彼女の人生は普通すぎる、ありきたりな人生である。田舎から出ず、ほぼ専業主婦、小さなことにクヨクヨ悩む性格も含め、彼女みたいな女性には絶対にならない!と思っていたけれど、
どんな人生も、希少なドラマである。
誰もが、1本の映画の主人公だ。
● 厳しい母と、奔放な娘
特に私が小さい頃は、とても厳しい母だった。実際には抱っこされたり、甘やかされたりしたはずなのだが、私の記憶には、なんだかいつも叱られていた記憶ばかりが残っている。
完璧主義者。そんな側面があった。
例えば、「次に生まれるとしたら、絶対に男がいい。」という理由が「料理をしなくていいから。」というぐらい、料理が大っ嫌いだった。
でも完璧主義だから、きっちりやる。そんなに嫌いなら、そこまでやらなければいいのに、と思うぐらい、苦しんでやる。そんな人。
そんな人から産まれた娘が、自由奔放過ぎたのか。
外で遊んでいると楽しくて、いつも門限を破る。叱られるのはわかっているけど、それより目の前の楽しみを優先させてしまう。
あまりにも約束の時間に帰ってこないので、母の堪忍袋の緒が切れ、1度、家の小屋に閉じ込められたことがある。今だったら虐待だとか言われるんだろうか(笑)
帰宅した父が苦笑いしながら、泣いている私を外に出してくれたのを、鮮明に覚えている。
● 永遠の女学生は「貧乏くさい」ものがお嫌い
こう書くと、まるで鬼ババのようなイメージになるけれど、一方で、「女学生がそのまま大人になったような人」だった。見た目も、年齢のわりに若く美しく、身なりや言動もオバさんくささのないタイプだった。
4人兄弟の末娘として可愛がられ、女子高を出て銀行員になり、教師の父と見合い結婚した。
実は、結婚相手には夢があったらしい。「ステレオを持っていて、ダンスを踊れる人。」
ダンスホールに通い詰めるぐらい、音楽やダンスが好きという一面があった。ここはちょっとシンパシーを感じる部分。
当然、若く安月給の教師がステレオなど持っているはずがなく、おまけに踊れるのはチークダンスのみ・・・ものすごくガッカリしたらしい(笑)
それで、ステレオは当時の夫婦にとってはちょっと贅沢なものを、すぐに買いに行ったそうだ。(のちに、私や弟はそれでレコードを聴くことになり、2人とも音楽にハマる。)
きれいな家具や、品のいい洋服が好きで、そんな雑誌をよく見ていた。NHKの連続ドラマは、およそ関東と関西のストーリーを交互に取り上げるけれど、「関西のドラマは嫌い」とおっしゃる。
なんで?と聞くと「貧乏な話が多くて、家具も洋服も素敵じゃない。」と失礼なことを言う。
要するに、ドラマじゃなくて、家具や洋服を見ているわけですね。
絵画も大好きで、名画集をコレクションしていた。モネなどの印象派が好きで、私が「ダリ」や「ピカソ」が面白い、と言うと、苦い顔をしていた。
私が、安物のカジュアル服を着ていると嫌な顔をし、気に入って何年も来ていたら「貧乏くさいから、捨てて。」とマジメに言っていた。
元銀行員だった彼女が家計を管理し、贅沢はせず、節約していたけれど、レストランに食事に行ったり、家でも時々フォークとナイフで洋食を食べたり、休日はトーストにコーヒーや紅茶を用意して、コツコツ集めたブランド物のコーヒーカップやティーカップを並べ、ゆっくり朝食を楽しんだりしていた。
● おがくず集めのリヤカーに乗せられた幼少体験
彼女が「貧乏くささ」を忌み嫌う理由があった。小さい頃の体験である。
彼女が小さい頃、何か事情があったのか、家がとても貧乏な時期があったらしい。木材が盛んだった町で祖母がリヤカーを引いてまわり、タダ同然で「おがくず」を集め、それを燃料として売っていたそうだ。
そのリヤカーに乗せられていたのが幼い母だった。クラスメイトを含め、人目が気になり、とてもみじめで、嫌な記憶として残っていると話していた。
その話を聞いてから、なるほど。と妙に納得し、彼女の「貧乏くさい!」を、さほどうるさいなぁと思わなくなったのを覚えている。
● 彼女の映画の続編が、私の映画の本編である
彼女の長女は奔放が過ぎて、全く彼女が望むような娘ではいてくれず、やがて病気が悪化し、長く苦しんだ。なんとか孫の顔だけは見た直後に、他界した。
彼女の最大の幸福は、チークダンスしか踊れない父が、いつも母を大切にしていたこと。そして、健やかな時だけでなく、病める時も誠心誠意、サポートし続けたことだった。
一時は、母の話をすることもできなかったけれど、もう17回忌。今は笑って話せるし、写真も飾っている。
気が付けば、なんだか私も、小さなことでクヨクヨしがちなオバさんになっているし、母ほどではないけれど「貧乏くさい」ものが嫌いな自分にも気づいている。血は争えない・・・。
「母のような女性には絶対にならない!」なんて、全く、孫悟空のようだったなぁと思う。
だって、私が主人公の映画は、彼女のそれより充実していると言えるのだろうか?
今は、写真の母と話をする。やっぱり、今でもいつも叱られているような気がする。「そんなことブログに書いて、恥ずかしい・・・」と、絶対に言っている(苦笑)
私の人生が終わるまで、彼女の映画の続編も終わらない。
彼女の続編も、私の本編も、つまらない映画にしないよう、そして私の娘に恥ずかしくないストーリーを渡せるよう、がんばらなきゃなぁと思う。
私は完璧主義者じゃないから、正しく、美しいストーリーじゃなくていい。かっこ悪くても、あきらめて生きることだけはしない。そういう映画にしたいと思う。